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特別協力

協 賛 
 
 
 
 
 


監 修../../Event.html
アウト ガレリア “ルーチェ”

浮谷 朝江
Toyota Sports 800生誕50周年協議会
ホンダ ツインカム クラブ / ホンダ スポーツオーナーズクラブ 
日野コンテッサ・クラブ / ニッサンスポーツカークラブ / 名古屋レーシングクラブ
MEGA WEB / 北斗インターナショナル / L’AVEC / G-LION MUSEUM / D-Specials
三栄書房 / 月刊 カー・グラフィック /オートカー・デジタル /月刊 カー・マガジン/  
愛豊自動車 / 国際貿易 / 高原書店 /ゼロクラフト / スピードショップ FII

ガレリア・アミカ../../Event.html

あなたは浮谷東次郎をご存知ですか?覚えているとおっしゃる方は、ほとんど60歳を超えた方達でしょう。しかし、一瞬、一瞬を真剣に生きた浮谷東次郎には若い頃からの自伝(日記)があり、それは文庫にもなっているので、世代を超えて、東次郎のことを知っている人も少なくはないでしょう。彼は江戸時代から続く裕福な旧家の一族に生まれましたが、そんな境遇にありがちな無為で怠惰な時を過ごした事はありませんでした。好奇心に溢れ、興味を抱いた対象には我を忘れるほど夢中になり、克己心が強く、常に自分と対峙しつつ、人にはとても優しい少年でした。今しがた、少年と言いましたが、1942年7月16日に生まれて、1965年8月21日に亡くなった彼は、23歳でしたが、素朴な少年の風貌のままでした。一般の庶民とはかけ離れた資産家に育った彼は、時にはその恩恵も受け、1957年、中学3年生の夏休みには、買ってもらったドイツ製の50ccのバイクで、千葉の市川の実家から大阪の親戚のもとまで一人っきりで走る往復ツーリングを敢行しました。当時はまだ国道といえども、ほとんどが無舗装の砂利道で、それはたいそうな冒険でした。高校3年生の時にはアメリカへ留学しました。現地ではオートバイで一人旅をし、またレースでも活躍しました。3年近い滞在の後、1963年6月末に帰国すると、友人たちからつい2ヶ月ほどに鈴鹿サーキットで開催されたばかりの第1回日本グランプリの話を聞かされました。すぐにトヨタに自分を売り込んで、レーサーとしての契約を結びます。それから彼の鈴鹿通いが始まります。誰よりも研究熱心だった東次郎は、1965年5月には鈴鹿サーキットのレースで1日に2種目で優勝を遂げました。しかし、何より日本のレース界で彼の名前を不朽のものとしたのは、この年に、鈴鹿サーキットに続いて、戦後の日本における2番目のサーキットとして千葉に開設された船橋サーキットの最初のビッグ・レースでの活躍でした。レイン・レースとなりましたが、最初のレースではロータス・エランで誰も寄せ付けずに独走し、横綱相撲のような堂々とした優勝を遂げました。もう1つのレースでは、当時から注目されていた生沢徹と競いましたが、生沢のホンダS600のインを衝いた時に閉じられて接触してしまい、傷を負った車体の修理にピットに入り、応急処置を施すとレースに復帰しました。それからの東次郎の走りは凄まじく、17位から次々と先行車を追い抜いて、やがてトップを走る生沢を捉えて逆転優勝を遂げました。この日から、彼の活躍は大いに期待され、彼自身も世界という舞台に羽ばたく意志を持っていましたが、それから1ヶ月後の鈴鹿サーキットにコース上に突然入り込んだ人をよけるために照明灯に衝突。短い生涯を終えました。

 今回のアウトガレリア “ルーチェ”では、浮谷東次郎の生涯の足跡を追いながら、まだ始まったばかりの日本のモータースポーツの青春時代を、今は無き船橋サーキットを中心に多面的に浮き上がらせたいと思います。

TOYOTA SPORTS 800 (1965)

HONDA S600 (1965)

HINO CONTESSA 1300 S (1965) 

DATSUN BLUEBIRD (1964)

DAIHATSU COMPAGNO SPIDER (1965)

SUBARU 360 (1964)

Kreidler K50


展示車両../../Event.html
TOJIRO
―60’s夢と青春の軌跡 、浮谷東次郎と船橋サーキットの伝説―
2015.6/13(Sat.)~ 2015.8/30(Sun.)