NSUの設計図を基に広島の自動車メーカー、東洋工業(現 MAZDA)が開発に挑んだ “ロータリー・エンジン”は、もうもうたる白煙を吹き、わずか数百キロの走行で焼き付いてしまった。社運をも賭けた夢のエンジンは先行きも危ぶまれる程に未完成の代物であった。
戦後、モーターサイクルシェア、世界No.1メーカーとして名を馳せていたドイツのNSUに在籍した、フェリックス・ヴァンケル博士によって考案された、このエンジンは実に革新的な発明であった。第二次世界大戦中ドイツ海軍の魚雷の為に開発したロータリー・バルブの技術を車用の内燃機関へ応用し、ピストンの代わりにローターを回転子とし、ローターの回転による容積変化を利用し回転動力を出力とした。すなわち一般的なレシプロエンジンのように、ピストン往復による容積変化を用いない為、効率良く高出力を実現し、部品点数も少ないので小型で軽量化も見込める当に夢のエンジンであった。
世界中のメーカーがNSUの新たなエンジンのライセンス契約獲得に手を挙げる中、1961年、駐日西ドイツ大使の支援を得て東洋工業はライセンス契約の締結に成功した。しかしながら契約内容は10年間で2億8000万円という当時としては巨額なもので、東洋工業が開発した特許は無条件でNSUに提供する事、さらに車両の売却1台毎にロイヤリティを支払うなど、一方的な契約条件であった。1964年には、NSUが先駆けて世界初のロータリー・エンジン搭載車、ヴァンケル・スパイダーを発売したものの、ロータリー・エンジン特有の不都合は未解決のままであった為、耐久性や信頼性に欠け、結局はロータリー・エンジンの悪評を振りまいた見切発売であった、挙句、市場からも撤退してしまった。
東洋工業は、戦時中、歩兵銃や航空機の発動機部品の製造などを行う陸海軍の共同管理工場であったが、戦後すぐに民需生産転換計画を立て、原爆投下で灰塵に帰してしまった広島でわずか4ヶ月後には3輪トラックの生産を再開した。50年には4輪トラックの生産を、さらには60年にR360クーペで乗用車市場へと進出し広島の戦後復興の一端を担ってきた、しかしながら自動車メーカーとしては中小規模でしかなく、通産省が打ち出した自動車業界再編方針が実行されれば大手メーカーに呑み込まれる事は必至であった。まさに、ロータリー・エンジンの技術の確立と成功こそが生き残りへの道であった。そして、1963年の全日本自動車ショーでロータリー・エンジン搭載車、コスモ・スポーツの計画を発表した。試作エンジンとプロトタイプの写真のみの展示であったが、宇宙を意味するその名の如く未来を予感させるパッケージは大いに注目を集めた。NSUすら実用化出来なかったロータリー・エンジンに挑んだロータリー・エンジン研究部の47人のエンジニア達はいつしか赤穂浪士になぞらえてロータリー四十七士と呼ばれた。そして遂には1967年、世界で初めて実用化を果たしたロータリー・エンジン搭載する量産型のコスモ・スポーツが完成した。MAZDA=ロータリー・エンジンの礎を築くのに至った瞬間でもあった。
今回の アウト ガレリア “ルーチェ” の企画展では、MAZDAのDNAとして今日へ脈々と受け継がれてきた、ロータリー・エンジンにスポットを当てました。夢のエンジンと謳われたロータリー・エンジン挑戦への根源となったNSUの実車から、当時NUSと合弁関係にあったシトロエンが開発したロータリー・エンジン搭載車、コスモ・スポーツを筆頭とするMAZDAの代表車までを通して、ロータリー・エンジンの真髄を垣間見ていただけることでしょう。
NSU SPORT PRINZ (1960)
CITROEN M35 (1970)
CITROEN GS BIROTOR (1974)
MAZDA COSMO SPORT (1970)
MAZDA FAMILIA ROTARY COUPE (1970)
SUZUKI RE-5 (1976)
アウト ガレリア “ルーチェ”
イベント期間中、午前12〜午後6時 休館日 月、火曜 (祝祭日除く)
〒465-0053 名古屋市名東区極楽1丁目-5番 オリエンタルビル極楽NORTH2F
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