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主  催
アウト ガレリア “ルーチェ”

特別協力 
株式会社 童夢
協  賛
三栄書房 / 月刊 カー・グラフィック /オートカー・デジタル
月刊 カー・マガジン 国際貿易 / 高原書店 / ゼロクラフト / スピードショップ FII

監  修
ガレリア・アミカ../../Event.html

 戦後日本の自動車は復興の需要で、産業用のクルマの生産が中心であったが、やっと個人のための、それも大衆でも手の届くクルマが作られるようになったのは、’60年代からと言っていいだろう。大衆でも物質的豊かさの実感を得られるようになり、さらなる物質的欲望を募らせた。そのなかでも自動車は大衆にとって実現可能な夢として、所有願望の大きな対象となった。1960年、マツダは意欲的な軽自動車R360クーペを発売し、トヨタも大衆車パブリカを発売して、大きな話題となった。またスーパー・カブが好調なホンダは、オートバイの国際レースに挑戦し、優勝を重ねるようになると、あろうことか、一足飛びに自動車レースの最高峰F-1にまで挑戦を始めた。鈴鹿に国際サーキットが作られて、ヨーロッパから招聘されたスポーツカーやレーシングカーが走り、国産メーカーもレース活動を開始した。やがて、船橋サーキットや富士スピードウェイも完成して、その時代のレーサーは映画スター以上に、現代のヒーローとして、もてはやされた。日本で初めての自動車専用高速道路である名神高速道路は’64年に一部が開通し、’68年には、名神~東名が全線開通した。ホンダはF-1での2勝を記録し、トヨタやニッサンのレーシングカーも凄まじい勢いで進化した。’60年代は日本におけるモータリゼーションの始まりであり、モータースポーツが急速に発展した10年間であった。

 今回の主人公である林ミノルは1945年7月に生まれ、幼年期は実家のある京都で御所を庭にして育った生粋の京都人である。子供の頃よりメカニズムに心を奪われ、機械製作に夢中であった。小学生になると雑誌『こどもの科学』や『模型とラジオ』をすみずみまで読むだけでなく、その記事にインスパイアーされた工作を次々に実践した。反射式天体望遠鏡、花火の火薬を利用したロケット、御所の池に潜む幻の巨大鯉釣り用クレーン装着リモコン船、Uコン自動操縦装置などなど・・・、人は夢を見て、夢を語るものだが、その夢を実行できる人はといえば、そうはいないものだ。その後東京に足繁く通い秋葉原で遊ぶラジオ少年だったが、中学生になると同じ趣味を持つ鮒子田寛と出会って、たちまち意気投合して、毎日いっしょにハンダゴテを握って工作に勤しむようになった。そんな或る日、鮒子田はスーパー・カブに乗って現れた。1959年のことで、たちまち二人の情熱はオートバイに向かった。ミノルはスポーツ・カブを入手すると、その日から、改造に取り掛かった。乗ることも好きだけど、やはり造ることのほうがもっと好きなのだ。ミノルはモトクロスを始め、走り回った。1961年には、鮒子田はマツダR360を手に入れ、事故で廃車になるまで、二人で走り続けた。1962年にはホンダがスポーツカーのS360を発表し、その翌年には排気量をアップしたS500として発売されて、多くの若者のこころを鷲掴みにした。もちろん、ミノルも夢中になり、それからはホンダS500をベースにしたレーシングカーの絵を来る日も来る日も描き続けた。その頃には鮒子田はレーサーを目指し、ミノルはレーシングカーの製作を目指すように、二人の進路もはっきり二方向に別れた。そして毎週末ごとに二人は鈴鹿サーキットに通っていたが、その頃、日本で唯一の本格的なサーキットには、わざわざ東京から通っていた連中がいて、それが浮谷東次郎と、その友人の生沢徹や本田博俊であった。たちまち彼らは仲のいい友人となった。その頃にはS600を浮谷も鮒子田も購入していたが、ミノルはいつもS600をベースに空力を改善し、軽量化する改造計画を提案していた。

 1965年、鈴鹿のレースでGT-1クラスに出場する東次郎は、ミノルにS600の改造を依頼した。東次郎こそは林ミノルの最初のクライアントだ。口ではレーシングカーの製作を唱えていたものの、実際のところ、19歳のミノルにとって初めての製作であり、そのうえ先人の教えも、モデルとなるケースも、資金も工場もなにも無いところから、試行錯誤での製作を始めた。プラクティスの当日に鈴鹿サーキットでなんとか完成させて、防眩の艶消しの黒にするとカッコいいんじゃないか、という本田博俊の提案でストーブ用の黒ペンキを荒物屋から買ってくると、塗りたくった。それ故に、このクルマはカラスと呼ばれるようになった。そして浮谷の乗るカラスは優勝した。そこからミノルにとって新しい世界が開いた。カラスは注目され、次に66年の日本グランプリを目指してホンダS800をベースにしたTOJIRO-IIとTOJIRO-IIIが開発された。それがマクランサに発展した。林ミノルは、続いて、クサビ(1969~70)や、パニック(1970~71)を造ったが、その後、しばらくは世間からは沈潜した存在だった。

1978年、ジュネーブ自動車ショーで突然、日本製のスポーツカーが発表され、大きな注目を浴びた。それが童夢-零で、そこからル・マン24時間レースやF-1への挑戦など林ミノルの世界に向けた活躍が始まった。

 今回のAUTO GALLERIA LUCEの企画展は、日本のレースの青春時代から活躍を始めた若者が世界で活躍するまでの御伽噺のようなヒストリーをご紹介させていただきます。

KARASU (1965)

MACRANSA (1966)

PANIC (1971)

DOME-ZERO (1978)

DOME P2 (1979)


展示車両../../Event.html
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