アストンマーティンは、そもそもが伝説から始まった。エドウォーディアン時代(ベルエポック)の若者らしく進取の気性に飛んだライオネル・マーティンとロバート・バムフォードは自転車が縁で知り合ったが、共同でロンドンのサウス・ケンジントンに自動車の修理工場を開き、シンガー代理店の権利を得た。
ライオネル・マーティンはシンガーをチューニングして、バッキンガムシャー州のアストン・クリントンで行われたヒルクライムで活躍した。そのかたわら自らのクルマの開発を進め、1913年に彼らが造ったクルマはイソッタ・フラスキーニの車体にコベントリー・シンプレックスの1389ccサイドヴァルブのエンジンを載せたもので、様々な競技に出場しながら開発を進めていった。アストンマーティンという車名は彼らが好成績を挙げたアストン・クリントンの地名と、ライオネル・マーティンの名前を組み合わせたものである。
レースでの好成績のおかげで、アストンマーティンの名前は生産車が生まれる前から、すでに有名になっていたのだ。黎明期のアストンマーティンに関心を持ち、財政的に支えたのは、レーサーとして名高いズボロウスキー伯爵だった。しかし伯爵がイタリアGPで事故死を遂げたので、後ろ盾を失ったアストンマーティンの経営は成り立たなくなった。
アストンマーティンの名前を救ったのはイタリア人のチェザーレ・ベルテリだった。すでに1500ccクラスのライトウェイト・スポーツカーとして名声を獲得しつつあったアストンマーティンの名前を買い取り、ベルテリもまた高品質のライトウェイト・スポーツカーを開発した。彼の時代にル・マン24時間レースへの挑戦が始まり、世界的に名声を高めた。
第2時世界大戦後にアストンマーティンの名前と名声を引き継いだのが、デビッド・ブラウンだった。DB1に始まる彼の時代のアストンマーティンは、1959年にはル・マン24時間レースでの念願の優勝を遂げて、当代最高のスポーツカーであることを証明した。
アストンマーティンは生まれた時から、続いてベルテリ、デビッド・ブラウンの時代、そして、現在に至るまで、高品質・高性能で、目利きで趣味のいい英国紳士たちに支持されてきた。
今回のAutoGalleriaLUCEの企画展では、ベルテリの時代からデビッド・ブラウンの時代にかけてのクラシック(古典)と呼ぶのにふさわしい歴代のアストンマーティンを展示し、その伝説に近づきたい。
ASTON MARTIN INTERNATIONAL Series1
ASTON MARTIN DB2
ASTON MARTIN DB2/4 Mk3
ASTON MARTIN DB4 Series5
ASTON MARTIN DB5
(1932)
(1950)
(1958)
(1963)
(1964)
アウト ガレリア “ルーチェ”
イベント期間中、午前12〜午後6時 休館日 月、火曜 (祝祭日除く)
〒465-0053 名古屋市名東区極楽1丁目-5番 オリエンタルビル極楽NORTH2F
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