THE AUSTIN 7
オースチン7と日本モータリゼーションの夜明け前
2020.9/26(土曜日)~12/27(日曜日)
 

Austin 7 Chummy / Austin 7 Coupe

Austin 7 Monopost / 芝浦電気製 7 / 脇田製 7

日本自動車製 7 / 機輪内燃機製 7

ダットサン 12型 フェートン

ダットサン 14型 セダン / オオタ号 / つくば号


展示車両

 オースティン7は第1次世界大戦後の1922年に生まれ、第2次世界大戦が始まる1939年までの両次世界大戦間に29万台余りが生産されて、広範な階層に受け入れられた英国の小型大衆車だった。それまでもサイクルカーと呼ばれる簡易な作りの小型車があったが、オースティン7はそれらと比べると、耐久性、経済性、安全性、均質性、運動性能ともに、サイクルカーの水準を上まる、品質の高い自動車だった。

 ところで日本では、自動車の生誕地から遠く離れた極東の地でありながら、自動車生産に必要な工業的環境が整ってない頃から、先人たちの並外れた努力によって、自動車の生産が試みられてきた。1904年には山羽虎夫によって蒸気自動車が製作され、1907年には内山駒之助によって水平対向2気筒SV1837ccのガソリンエンジンを搭載した自動車が10台製造されたが、これが国産ガソリン自動車第1号である。また、三菱造船では七人乗りの大型車の生産、石川島造船ではイギリスのウーズレーのライセンス生産、川崎重工も大型乗用車六甲の生産を始めたが、いずれも国策に沿う活動を重視し、民需には力を傾注しなかったので、継続的な生産は断念された。したがって、日本では、山羽や内山に続いて、やはり在野の人々の情熱で自動車が作られた。アメリカで機械技術を学んだ橋本増次郎は、DAT号と名付けた自動車を1914年の上野の博覧会で発表した。DAT号は1918年から生産されたが、商業的に苦戦した。大阪では、飛行機の技術者ウィリアム・ゴーハムが3輪サイクルカーを設計し、久保田鉄工の後押しで1919年に実用自動車製造が設立されて生産された。まもなく久保田鉄工出身の技術者・後藤敬義によって4輪自動車に改造され、さらに本格的な4輪自動車リラー号が生産された。豊川順彌は日本の国情と広くアジアに輸出することも考えて、空冷4気筒943ccのオートモ号を200台以上生産したが、商業的には苦戦して、企業としての継続は断念した。また大阪のダイハツや広島のマツダの前身となる企業は、1930年代から日本の環境に見合った3輪の商用車の生産を始めたが、改造されて乗用車に転用された一種のサイクルカーもあった。戦前の日本の自動車の歴史において、大きな転機が、1923年の関東大震災だった。機を見るに敏な梁瀬らによって、復興には自動車が必要になるだろう、との判断から、アメリカから大量の自動車が輸入され、東京市もトラック用TT型フォードを多数輸入してバスに仕立て、公共の交通機関にした。そして、日本に新たなマーケットを発見したフォードは1925年に横浜で生産工場を設立し、続いてGMやクライスラーの生産工場も日本に進出した。こうした動きから、頑丈で、パワーもあるアメリカ車が、日本で普及していくこととなった。オートモ号にしても、DAT号にしても、より大きくパワーも信頼感もあり、内容に比較して廉価なアメリカ車に対しては、市場の法則で商業上の勝ち目はなかった。東京の快進自動車と大阪の実用自動車は、販売不振のため、1926年に合併してダット自動車製造となり、しばらくはトラックの生産で糊口を凌いでいたが、1931年からは後藤敬義が中心となって開発した新しい4気筒のダットサンが大阪工場で生産された。当初は無免許で運転が可能な小型車には排気量が500ccまでという制限があり、そのため495ccだったが、1933年に小型車の排気量制限が750ccまで拡大されると、その年の生産型から745ccに拡大された。ここに野心的で先進的な企業家・鮎川義介が登場する。鮎川はアメリカ車の普及した今こそが、日本という国土に合った小型車のマーケット拡大のチャンスと見て、ダット自動車製造などを傘下に収め、1934年には日産自動車として再編した。すでに前述のウィリアム・ゴーハムも鮎川を助ける技術者として活躍し、アメリカから何人もの技術者を呼び、より高度な工作機械も輸入していた。販売網も強化されて、横浜の新工場が稼働すると、ダットサンは初年度には1170台、そして1937年には8353台が生産されるまでに拡大した。こうして日本の自動車産業が初めて軌道に乗ったのである。

 その頃に、やはり小型車のカテゴリーに、二つのメーカーが参入したことも、記憶に留めたい。一つは、1931年に名古屋でV型2気筒500ccエンジンのローランド号を製作していた川真田和汪が、新たに開発したV型4気筒750ccの前輪駆動車、筑波号で、1934年から1938年までに130台生産された。もう一つは、太田祐雄・祐一親子によって開発されたオオタで、瀟洒なボディスタイルが人気を呼んだ。オースチン7は、自動車界の実力者大倉喜七郎がバックアップする日本自動車が、日本の法規による小型車という枠に適合させるために、短いホイルベースのベア・シャーシーを輸入して、日本製のボディを架装する方法をとった。それゆえに、日本独自の仕様のオースティン7が生まれたのだ。1930年代には、日本独自の小型車という枠の中で、同時代の世界的基準となるオースチン7とともに、ダットサン、つくば号、太田などの意欲的な国産車が揃っていた。鮎川義介はさらに欧米の車に匹敵、凌駕する車の開発を目指していたし、豊田喜一郎も同じ志でAA型を開発した。小林彰太郎は、もし愚かな戦争という断絶がなければ、日本のモータリゼーションは20年早く始まっただろうと述べた。今回のAutoGalleriaLUCEの展示では、そんな日本のモータリゼーションの夜明け前のクルマたち、オースチン7を中心に、そのライバルだったダットサン、つくば号、オオタ号を紹介します。

アウト ガレリア “ルーチェ”

イベント期間中、午前12〜午後6時 休館日 月、火曜 (祝祭日除く)

465-0053 名古屋市名東区極楽1丁目-5番 オリエンタルビル極楽NORTH2F

Copyright © 1998-2020 auto galleria LUCE Inc. All rights reserved.

主  催

アウト ガレリア“ルーチェ”

後  援

援 日産自動車株式会社 / トヨタ博物館

特別協力

Garage Talk / S-Kobayashi Archive

Austin Seven Register Japan 

協  力

カーグラフィック / カーマガジン

オートカーデジタル / 二玄社 / 三栄 日本自動車博物館 / 高原書店 / 国際貿易 スピードショップF2 / ゼロ クラフト

Office 403 / サンセット / ロンバルディ モトリモーダ / ル・ガラージュ / ブレシア OTオートモビリア / ACマインズ

監  修

ガレリア・アミカ